天智・天武・鎌足
昭和天皇が人生に於て唯一自ら創建したのが近江神宮である。近江神宮は天智天皇の最大の御社である。何故天智天皇なのか。終戦の時も先ず勅使を出したのが近江神宮であった。天智天皇と天武天皇と藤原鎌足、大化改新後宮中政治は此三人で進められた。壬申の乱は悲劇で在ったが、その後天武天皇によって重要な事はさだめられている。制度改革はもとより古事記日本書紀の編纂から国名から天皇の名称迄。天智天武鎌足は意気投合していた。一心同体協力してきた。最後に残された天武は藤原鎌足との約束を果した。大友皇子(弘文天皇)も優れた方であったが、歴史の流れに巻き込まれてしまった。人間凡夫性が当たり前の何でもありといふ、そう云ふ時代だつた。長い争いの時代だった。それ以後も同じように続く。政治の世界だから逃れられない。大本教も王仁三郎が決めた後継者孫長女直美夫婦を追い出してしまった。今現在3派に割れた。内部抗争とはそう云ふものだ。PL教団も同じようなパターンだった。御木徳近の弟が継ぐ事になっていたところクーデターにより追い出された。絶えず起きている。まして権力抗争である。天智が可愛がっていた孫大津皇子も政争のため殺された。此処で考へねばならないのは天武天皇と云ふ方が以外と分りにくい人物だと云ふことである。神を信じ生きた優れた霊人のような気がする。様々な奇蹟をみると神に通じた人だったに違いない。そこに神の守りが在った。神の守りを信じた人だつた故に神々の守りが常にあった。壬申の乱以降の姿にそのことが伺える。春日大社,天河弁財天,龍田神社も創建された。神社を造るとは其時代の陛下の意向が大きく影響する。天智天武鎌足は三人共に大化改新を推し進め、やがて息子大友皇子が大きくなり色々権力抗争が起きた。皇太子大海人が支えていた天智朝も息子が出てきたので吉野へ出家した。是も本気の修行を目指していた。そう云ふ人だつた。天智の改新を進めたのが天武であり、日本のあり方を、伊勢神宮を中心にするために、式年遷宮を定め、建国の神武を立て、日本のあり方の基本を定めた、天武天皇の真価が誤解されている。神の御心の儘に動いた霊人だった。その様な天武天皇を神宮に造営する日がいつ来るのだろう。
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